じつはわたしは、この七年間、日本人の文化の歴史をたどり、歴史から見えてくる現代の趨勢を尋ねてきた。その結果がのち(八ページ)に詳しく図表で示すように、「日本は情と知の文化の時代をへてこれから意志の時代に入る」という結論だった。
現代――十九世紀に始まり二十六世紀に意志にみちた文化を完了するであろう時代は道徳において良を全うする意志が歴史的に要求されているのである。しかも二十二、三世紀ごろまでは、激しい攪拌が予想される。
ただ、現代に要求されているものは、そう容易なものではない。
なにしろ善など手軽に得られるはずもない。中国の思想家で、孔子以上に日本にインパクトをあたえつづけてきた孟子も“窮して即ち独り其の身を良くす”(尽心)という。身を窮境におかなければ善など行えないという、この人間への痛打をかみしめる必要がある。
また道徳も集団によって結集される、個人の人徳であろう。ところが道(ルール)として共有するに到るものとは、むしろ自己を抹消して成立するもののはずだ。すなわち道徳とは、一人ひとりが行うものだのに、固有のものを行うのではないという上等なレベルのものだ。これはなかなか得がない。
さらに他の真や美は己れにとっては内向的に働くが、善は外に向かって発せられるものとして一線を画す。「公共」の概念と随伴しあう異質のものである。
そしてさらに、まさに現代に到って重要視される情、知、意の三者はそれぞれ身体のどこの働きかという、興味深い問題もある。感性に基づく情は「胸にあふれる」といえば納得しやすいだろう。そして知、学術の真はどのようにして求められるか。やはり「頭で考える」といえば納得しやすい。
それに対して意志、善を行う道徳はどこの働きなのか。やはりこころの働きだといえばわかりやすいのではないか。
それではこころは、どこにあるのか、これはまさに人によって、さまざまである。以前「どこにあるか、こころに手をあてて下さい」というと、ある人は胸をおさえ、ある人は頭に手をおき,極端な人は頭上に手をかざしたことがある。
ところが『広辞苑』(第六版)を引いてみると「はら」(腹、肚)にかかわることばは、「腹が大きい」=心が広く……、「腹がすわる」=心が決まっていて……、「腹に一物」=心中に何か……、「腹を合わす」=心を合わせる……等々とあって、古来日本人が、こころは腹にあると考えてきたことを示している。
なるほど勇気ある行動で善いことをするときは、腹に力をいれて「よし」というだろう。善は胆力によって行われるのであった
その点でも、善、道徳、とよばれるものが、人間にとって、いかに行うに、困難なものかということがわかる。美や真の実現より善の達成が遅れたことにも、必然的な理由があった。
そもそも現代は個性、個性といわれ、一方で、公共、公共というよび声も大きい。そのふたつの、矛盾しかねない現代の要求は、以前にもまして人間の荷物を重くしているではないか。
しかし日本人の心の歴史の中で、以上の歴史的推移は十分必然性をもつものであった。日本人は現代の意志の時代に向かって、情、知を深め、十分助走してきたといえよう。一八九〇年代にはいちはやくスタートを切りかけてさえいる。
こうした歴史を知ることが、震災後を意志の力で生きる上でいっそう有効だろうと思う次第である。
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事实上我在这七年里,通过追溯日本人的文化历史来探寻以史为鉴的现代趋势。在后文(第八页)有通过图表来详细的展示,得出了这样的结论:日本经由情和知的文化时代进入了意志的时代。
现代——即从19世纪到26世纪达成充满意志的文化的时代,在道德上完善“善”是历史性的要求。况且可以预想到22、23世纪的时候在文化领域将会产生激烈的碰撞。
不过,现代意义上要求的善,并不是那么容易得到的。
不管怎样,想轻松地得到善之类的目标是不可能的。在中国的思想家中,和孔子相比孟子对日本产生了更加持续的影响,孟子也曾说过“穷则独善其身(尽心)”。若不身处困境就难以施行善等美德——有必要牢记这句警世名言。
而且道德也是集合为整体的、个人的人德。然而所谓通过一定的规则共享而达到集体道德,反而是在抹杀自我之后建立的。即,道德是每一个个体施行的东西,是不因循守旧的、高水准的东西。这不是轻易能得到的。
另外,真和美是由自身向内实行的,与此界限分明的是,善是向外发散的。是和“公共”的概念相伴而生的异质的东西。
而且,也有一个很有趣的问题,那就是在现代被重视的知、情、意三者各自是对身体的哪些部位产生影响的。如果把以感性为基础的情说成是“在胸中油然而生”应该会容易接受吧。那么在哪里探求知和学术上的真呢?果然还是说成“用头思考”比较容易接受。
与此相对,施行意志和善的道德是那个身体部位的活动呢?说成是内心的活动比较容易理解吧。
那么内心究竟在哪,这个问题的确因人而异。以前被问到“内心在哪里?请用手指出来”,有的人按着胸口,有的人把手放在头上,极端一点的人甚至会把手举过头顶。
如果从《广辞苑》(第六版)来看的话和“はら”相关的用法有:“腹が大きい”=心胸宽广……,“腹がすわる”=下定决心……,“腹に一物”=心里在意的事……,“腹を合わす”=齐心协力……,等等。这说明自古以来日本人都认为内心位于腹中。
原来是因为在鼓足勇气施行“善”的时候,需要腹部发力地来说“よし”。善是需要胆力来实行的事情。
尽管这样,被称为善和道德的东西对于人们来说,也可以知道是多么难以施行的。善的达成比美和真的实现要晚,是有必然的理由的。
最初在现代,倡导个性(如果被称作个性的话)以及公共(如果被称作公共的话)的呼声很大。这两点可能有点矛盾的现代的要求,难道不是比以前更加加重了人们的负担吗?
但是在日本人的心灵的历史中,以上所说的历史推移是有非常大的必然性的。可以说日本人已经向着现代的意志时代,深化情和知,进行了充分的助跑过程吧。这甚至在1980年代就已经早早地开始了。
如果能像这样知晓历史,将会在震灾后能依靠意志的力量更好地生活吧。
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先生の教えをお願いします。
靡不有初,鲜克有终……