どうだろう。わたしたちが「もの」という単語でよんでいるものと、びっくりするほど似ていないだろうか。
そもそも今日のことばで「もの」は物という漢字を与えられ、「もの」とよぶ対象は「あらゆるもの」であり、ひとつひとつを区別すると品物(しなもの)という。シナとは区別のことだからだ。だがら「物見遊山」とか「物語」とかいうだけでは漠然としていて、ひとつひとつお花見か紅葉狩りかを、また『源氏物語』か『平家物語』かを区別しないと話は具体的にならない。
正体を見極めないと人間は不安だから「もの」だけでは安心できない。向こうでゆらゆら揺れている「もの」は幽霊なのか枯れススキなのか。正体が具体化して枯れススキになると安心する。つまり「もの」だけでは怪しくてふしぎな力のあるものなのだ。
この怪しさは解れば消える。つまり力であってどんどんと移り変ってゆくからだ。それ自体を「もの」というのではなかった。
改めて、さっきのマナの項目が、日常語の「もの」を説明してくれているように思える。
やはり「もの」はマナだったのである。
****************************
怎么样?是不是和我们在说“もの”这个单词的时候的语感出奇的相似?
本来今天所说的“もの”只是借用了汉字“物”,而被称作“もの”的对象是“万事万物”,如果要一个一个区分开来则称作“品物”。这是因为日语词汇和汉语词汇有差别而造成的。但是只说“物見遊山”和“物語”的话,“もの”的意思是模棱两可的,只有像把赏花和赏枫叶一一区别开来一样,把“源氏物語”和“平家物語”区别开来,意思才会变得具体。
因为不清楚真面目人们就会变得不安,只说“もの”的话并不能让人们安心。在那边扑朔迷离地摇摆的“もの”,到底是幽灵还是干枯的芒草呢?清楚了真面目之后哪怕是干枯的芒草也能让人安心。总之,只说“もの”的话会有一种怪异而不可思议的感觉(“力”)。
这种怪异被了解之后就会消失。总之是因为“力”这种东西是在不断地转移变化的。这本身也并不是被称作“もの”的东西。
再者,刚才所说的关于mana的几点,我认为是对日常用语“もの”的说明。
果然“もの”就相当于mana。
****************************
先生の教えをお願いします。
靡不有初,鲜克有终……