それをさきの『広辞苑』の説明では転移しやすいと述べるように、うれしいことに、すぐ伝染もしてくれる。
今日でも沖縄には御嶽(うたき)信仰がある。たった一本の樹木の下に供物をおき、何時間も祈りをささげる老婆を見かける。ここにはいまなお、「もの」の力が付着しているのである。
さて、この「もの」の非定着性、物体の形をこえる超越性、逆のいい方をすれば普遍性をもっとも大切な観点としなければならないのが、縄文時代の文化を代表する縄文土器であろう。
あの、火焔形とさえいわれる、みごとな造形をもつ土器が表現するものは、「もの」に他ならない。つまり力なのであって品物としての個々の形は、何も表現しようとは思っていなかったのである。
にもかかわらずわたしたちは縄文土器を前にして、ここに描かれるのは神だ、いや人だとか、雲だ、いや水だなどと、いわないだろうか。彼らはそのいずれも表現しようとは思っていないのだ。
彼らは物体をこえた、非定着の普遍的な力としての「もの」、超力なるものを造形しようとしているにすぎない。
超力を造形するという、この不逞ともいえる造形への願いを、われわれは汲みとる必要がある。
燃える物にしてもたくさんある。火を燃える、血を燃える、木の芽も燃える。また雲も流れる、水も流れる、人生も流れる。「燃える「もの」」「流れる「もの」」を造形するのが縄文土器である。
力の表現だから逞しいのも当然となる。反面、悲しいことにも力はとどまらない。もし生前に誰かが愛し、愛の力をもった土偶があれば、その人の死とともに土偶も力を転移させていく。
とくに乳や性器などに生産の力を強調した土偶は極端に多い。当然のことだが、反面、その人が死ねば生命の生産はなくなる。もう役割を失った土偶は、力を失ったものとして毀される運命にある。土偶が必ず破壊されて出土するのもそのためで、むしろこれは、一途な「もの」――力への信仰を示すものであろう。
****************************
正如先前在《广辞苑》的说明中陈述的那样,“mono”很容易转移,令人欣喜的是,它也很快传播开了。
即使在今天的冲绳也存在着御岳信仰。可以看到仅在一棵树下放置贡品,真心祈祷几个小时的老婆婆。在这里,即使在今天也附着“mono”的神力。
那么,关于这个“mono”的不固定性、超越物体表象的超越性,反过来说就是普遍性,一定要说的重要的观点就是,代表绳文时代文化的是绳文土器。
那个,甚至被称作火焰形状的、造型美观的土器所表现的,无疑就是“mono”了。总之,作为寄托神力的单独物品(品物)的各自的造型,并没有想表现什么。
尽管如此,当我们面对绳文土器的时候,不是也会说“这里描绘的是神”,“不,是人”,“是云”,“不,是水”,之类的吗?他们并没有想表现任何这些东西的想法。
他们只不过是想塑造出作为超越物体的、不固定的普遍神力“mono”的,也就是关于超力的东西的造型罢了。
为超力而造形的、或者说是这种不可实现的造形的愿望,我们有必要理解。
也有很多“燃える物”(moeru mono)的例子。火也在“燃える”(火燃烧),血也在“燃える”(血液沸腾),树的新芽也在“萌える”(新芽萌发,音同moeru)。又或者云也在“流れる”(nagareru,流云),水也在“流れる”(流水),人生也在“流れる”(流年)。绳文土器是在为“燃える物”、“流れる物”而造型。
因为是神力的表现,所以这种永远流动的韧性是理所当然的。相反,即使实在让人悲伤的事物上,神力也不会停留。如果生前有人爱过,并且留有凝聚爱之力的土偶的话,随着这个人死去,土偶上的神力也会转移。
特别是,强调乳房和性器之力的土偶极多。这是理所当然的事情,相反,这个人死去之后生命的生产也会消失。已经丧失功能的土偶,作为丧失神力的东西就难逃被毁灭的命运。土偶一定是被破坏之后才被发掘出土也是因为这个原因,不管怎样,这显示出了对于自始至终的“mono”——神力的信仰。
****************************
关于火焰形状的土器,我找了一张图片(伝新潟県長岡市馬高出土_火焔型土器_(J-39036)-1):

图片附件: 2024521160920-247.jpg (
2024/5/21 16:09:20, 194.66K)

****************************
先生の教えをお願いします。
[
本帖子最后于 2024/5/21 16:45:25 编辑 ]
靡不有初,鲜克有终……