三、「もの」を持続する日本人
さてこうして始まった日本人の信仰だが、それは驚くべきことに今日にいたるまで、連綿として保有されつづけていて、日本人の中から滅びさることはない。
「もの」の第一の殉難は、カミの渡来であり、第二に仏との対決だった。にもかかわらず、「もの」は超然として残存しつづけてきた。
ところが貶しめられながら後のち、晴れがましい扱いも受けつづける。
話は大きく時間をこえるが『源氏物語』という一大長編小説が十一世紀に書かれ、この中でも「もののけ」が大活躍をする。人間の情念そのものが「もの」の力なのであって、情念をみごとに文芸化することが十一世紀ごろに行われた。
そしてさらに現代になると『もののけ姫』という一大人気アニメが登場し、したたかな「もの」の力を感じさせる。
いやこうした特別の作品をあげるより、もっと身近な日常における「もの」の存在の方が、「現存する縄文」として大事だろう。
右の「もののけ」は六条御息所の魂にも依りついたが、今日もわれわれは日常的に「これは物怪(もっけ)の幸い」などという。「もっけ」とは、「もののけ」、ふしぎで理解できないほどの意外さをいうことばとして現役中である。
しかも「禍転じて福となす」のたとえどおり、不吉だった「もののけ」はいま「物怪の幸い」という。もう「物の怪」というより「物の気配」と考えた方がよいぐらいに転換しているのだろうが、しかしふしぎな力への信頼は失せていない。
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三、延续“mono”的日本人
而这样开始的日本人的信仰,令人感到惊奇的是即使到了今天,也连绵不断的持续被日本人相信着,并没有在日本人的心中灭失。
“mono”面临的第一个劫难是“神”的渡海而来,第二个就是和“佛”的对立。不管怎样,“mono”仍然以超然的形式持续存在着。
不管被怎样贬低,“mono”在后来一直受到了令人欣慰的对待。
话说跨越了历史长河的一大长篇小说《源氏物语》是在十一世纪成书的,在书中“物怪”(mononoke)也非常活跃。人类的情感这种东西相当于“mono”的神力,普遍地把情感进行文艺化也是在十一世纪兴起的。
而且说到现代的话,名为《幽灵公主》的人气动漫大作登场了,让人感受到强烈的“mono”的神力。
另外,和举出这样特别的作品的例子相比,更加贴近日常生活的“mono”存在的现象被称为“现存的绳文”,这是很重要的吧。
虽然上文所说的“物怪”是六条御息所的灵魂附体,在今天我们日常也会说“これは物怪の幸い”(这是意外之喜),等等。“物怪”就是“mono”的“怪“,有些意外吧,像这样令人惊讶的不容易理解语源的词汇在今天也在被使用着。
但是像“否极泰来“的例子一样,曾经不吉利的”物怪“在今天被说成是” 物怪の幸い“(意外之喜)。虽然“物怪”的意思已经大相径庭,甚至到了认为是”事物的苗头“的程度,但是对这种不可思议的神力的信赖并没有消失。
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靡不有初,鲜克有终……