また、今や世界語にさえなった「もったいない」ということばがある。古い言い方では「もつたいなし」という形容詞、この「もつたい」は「物体(ものたい)」(「もの」の本体)。「もの」の本体が無くなってしまうのが「もったいない」である。
ノーベル賞をうけた田中耕一さんのことばを通じて世界的に評判となり、日本的な心性として「もったいない」とする心をあげるまでになったが、さてその本源は、マナ由来の「もの」という超力信仰である。
一万年前の信仰がノーベル賞を通じて世界に発信されていくとは、日本人の驚くべき持続力ではないか。
これほどに、精霊的(スピリチュアル)なものは人間にとって根源的なものだということになる。が一方、それを保有しつづけてきた日本の文化のあり方もみすごせない。
保有しえた理由は、ひとつには縄文後いくばくかの変化をもちつつも、やはりこの国土にひとつの国家が成立し、歴史を重ねてきた、この国家の枠ぐみの力の大きさになる。
その上で保有しようとする日本人の心の傾向も、もとより大きい。「もったいない」にしても具体的な物体を捨てることがもったいないというより、ここになお「もの」の姿を消去し切れない感性の力が働いているとわたしには思える。
日本文化におけるこの感性の大きさも、後のちに多く語るべきものだが、文化の基幹をなすものが信仰であることを考えると、「もの」を感じつつ一万年を生きてきた日本人のあり方は、より広く日本文化の形成の方法として考えられるべきであろう。
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另外,现在甚至有了像“勿体无”这样成为世界语的词汇。古老一点的说法是“もつたいなし”(motsutai nashi)这个形容词,这个“もつたい”(motsutai)就是“物体”(monotai,“mono”的本体)。“mono”的本体没有了之后就变成“勿体无”。
获得诺贝尔奖的田中耕一先生凭借语言学研究受到了世界的高度评价,根据他的研究,作为日本人心性的“勿体无”已经到了影响心态的程度,然而进一步来说,它的根源还是由来于“mana”的、被称为“mono”的超力信仰。
一万年前的信仰通过诺贝尔奖得以向世界传播开来,这不是能让日本人惊讶的延续力吗?
所以说,精神的(spiritual)东西经由人类变成了所谓根源的东西。而另一方面,也不能忽视一直将之留存的日本文化的本来面目。
之所以能够留存,一是因为绳文时代后虽然经历了些许变化,但是最终这片土地上成立了一个国家,跨过历史长河的这个国家的“框架”的力量是很大的。
所以,日本人心中趋于将之留存的倾向,一直以来都是很强的。像“勿体无”这样的词汇表示丢失了具体物品的心情,也就是“もつたい”(motsutai)“无”了。我的观点是,这也是“mono”的无法尽数除去的姿态、也就是感性的力量在发挥作用。
日本文化充满感性,这一点值得在后文多加详谈。而成为文化基础的东西被视为信仰,感知着“mono”生活一万年的日本人的本来面目,值得我们基于更广的日本文化形成原理的视角来多加思考。
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关于绳文时代的章节已经翻译完了,明天开始弥生时代ヾ(≧▽≦*)o
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先生の教えをお願いします。
靡不有初,鲜克有终……