以下は、今の若い人について書かれた文章である。
大勢の前で意見を述べるのは誰でも緊張する。うまく伝えられるかどうかと思う不安はあるから気後れする人もいる。それは、いつの時代も変わらないと思う。ただ、私たちの場合は、うまく話せないからと尻込みする者はいたが、自分の考えを言うことを嫌がる者はあまりいなかった。というのは、仲間との讓論はみんながやっていたからだろう。
私は別に議論がいいと言っているわけではない。ただ、自分が感じることや考えることを言って、友だちの意見を聞くことは、自分の考えを確かなものにしていくためには欠かせないと思うので、議論という言い方をしているだけなのである。
ところが、今は中高生に限らず若い人全体の中に、まったくと言っていいほど議論がない。違いを主張するのは相手に自分を理解してほしいと思うからで、仲のいい関係であればあるほど自然なことなのだが、それを主張しなくなっている。以前、若い人を取材して、なぜ言わないのかと訊いたときの返事は、「人にはそれぞれ考え方があるのだから、とやかく言うことはできない」というものだった。これは、あたかも相手を尊重している「個人主義」のように聞こえるが、気のおけないはずの親しい友だちに対してもやっているのは不自然である。
本当は、「自分の言うことに反対されて傷つくのがいやだから、相手の言うことにも反対しないわけ」で、く結局、友だちに合わせているのは、友だちのことを思っているからではない。自分がかわいいのであり、傷つきたくないからなのだ> ということだろう。
以下是一篇关于现在的年轻人的文章。
在很多人面前叙述自己的意见,不管是谁都会紧张。也有人会因为担心自己能否流畅表达而不安。我想无论什么时代这种情况都不会改变。不过,就我们而言,虽然有人因为不能流畅表达而退缩,但讨厌把自己的想法讲出来的人并不多。之所以会有这种情况,也许是因为大家都曾经和伙伴争论过吧。
我并不是说争论是好的。只是我认为,把自己的感受和思考讲出来、倾听朋友们的意见,对于形成自己的想法不可缺少,只是在使用一种叫做争论的说话方式。
然而,现在不光是中学生,而是所有年轻人,几乎没有任何争论。对于坚持自己的不同之处,年轻人希望对方能理解自己,而且关系越好越会这么想,就越不会去坚持自己的不同。之前在采访年轻人的时候,我问过他们为什么不讲出来,得到的回答是“因为人与人之间存在不同的思考方式,所以好也罢坏也罢都不能说”。尽管这听起来像是尊重对方的“个人主义”,但即使对于应该坦诚相见的朋友来说,这样做很不自然。
实际上,虽然会觉得“不希望有人因为自己的反对受到伤害,自然就不应该反对对方说的话”,但说到底,我们这样配合朋友并不是考虑朋友的感受,而是因为自己可爱、不想伤害别人这么一回事吧。
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这篇和将棋那篇一样,又是说理的文章,感觉好难…… 请老师批改。
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本帖子最后于 2024/5/24 23:07:15 编辑 ]