ユーラシア文化の一環としての、新しい日本文化の目覚めである。
いうまでもなく世界的には、アフリカ、地中海地方にすでに高い文明があり、ギリシャ文明はインドにも伝わり、ローマ帝国の文明は広くユーラシア大陸の西辺に浸透していた。
そしてまた黒海沿岸のスキタイ文明は、その位置からもアジアとの一体化が当然生じる。そこから草原をたどる文明の遠い旅人も、日本はやがて受け入れることとなる。
それほどに、新たな文明、文化は大陸的なもので、従来の海洋的なものと大きく異なる。
その中で「もの」の信仰は大きく後退し、新たに信仰の中心となったのはカミであった。上述からも、このことばと信仰が朝鮮を窓口とするユーラシアの、しかも北方を主とする信仰であったと考えるのが妥当だろう。
はたせるかな、カミは朝鮮語のコムの日本的発音らしい。あのマナがモノとなったのと同じである。そして中国ではこの存在に「神」という文字をあたえていた。さらに日本人は、神を漢民族の神とよんだものとひとしいと考えた。
同じく北海道人はこれをカムイとよんで受け入れた。推測だが、イは朝鮮にも古代日本語にも登場する助辞で、存在を確認する働きを示すように思われる。
それではカミ(コム、カムイ)とはどんな存在なのか。コムは現代でも朝鮮語で熊をさし、『日本書紀』にも朝鮮の地名、熊津(くまなり)が登場する。いま公州博物館には古代に信仰された熊の石像がある。
一方、おもしろいことに英語のbearも神を意味するといい、円卓の騎士の王Arthurも熊王だという。中国の聖人禹(う)も熊だという伝えがある(『漢書』武帝紀、顔師古の注)。
ただ、だからカミは熊のことだというのではない。カミはあくまでも超越的な存在のことで、具体的にいえば熊もその一つとしての動物だったというにすぎない。
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作为欧亚文化的一环,新的日本文化正在觉醒。
不用说,在世界的范围内,非洲、地中海地区已经达到了很高的文明程度,希腊文明也是从印度传来的,罗马帝国的文明已经在广阔的欧亚大陆西侧深深浸透。
那么另外,黑海沿岸的斯基泰文化,由于地理位置的原因也必然会产生和亚洲的一体化。在这种逐草而居的文明里,远方的旅行者很快地对日本也产生了影响。
所以,新的文明在文化上是大陆性的,和以往的海洋性文化有很大差异。
其中,“物”的信仰大幅倒退,取而代之的新的信仰的中心便是“神”。如上所述,将这种“神”的信仰视为以朝鲜为窗口的欧亚的、也是以北方文化为主的信仰,是比较妥当的。
果然,朝鲜语中的“神”如果用日语发音的话听起来就像是“コム”(komu)。这也符合上文所说的“mana”到“mono”的音变规律。而且在中国用“神”这个字来称呼这种存在。由此可知,日本的“神”(kami)和汉族的被称作“神”的东西是相同的。
同样地,北海道的人们将它叫做“カムイ”(kamui)。据我推测,“イ”(i)就是在朝鲜和古代日语中都存在的助词,作用是表示对某项存在的确认。
那么“神”(kami,komu,kamui)究竟是什么样的存在呢?“komu”在现代朝鲜语中是指“熊”,在《日本书纪》中也出现过名为“熊津”“kumanari”的朝鲜的地区。现在公州博物馆也收藏着反映古代信仰的熊的石像。
另一方面,有趣的是英语中的“bear”也可以用来指神,圆桌骑士们的王Arthur就是熊王。据传中国的圣人也是熊(《汉书》武帝纪,颜师古注)。
但是,“神”并不等于“熊”这种东西。“神”说到底是超越性的存在,而具体意义上的熊,只不过是体现“神”的一种动物罢了。
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靡不有初,鲜克有终……