ところが事件が起きてしまったのである。
聖林寺の鐘から血が滴っていたという「事件」のことを、雪江は結局、次男坊にはもちろん、陽一郎にも話さずじまいだった。聖林寺の住職と約束を交わしたわけではないけれど、住職を裏切るような真似はできなかったし、それに、ただでさえ多忙な洋一郎に余計な話を吹き込んで、負担をかける結果になるのは、なるべく避けたい主義である。
それから半月ばかり経った五月二十二日、隅田川上流の岩淵水門付近で、男の死体が発見された。
滝廉太郎の「花」で「春のうららの……」と歌われた隅田川は、ロンドンのテームズ、パリのセーヌと並び称される。しかし、大都会東京を代表さる風景のひとつであるこの隅田川も、元をただせば、秩父の奥山に源流を発し、埼玉県を流れてくる荒川の下流部分にほかならない。荒川が千住付近で大きく右に屈曲し、江戸の市街地に接近して流れる辺り部分を「隅田川」と呼んだ。
荒川は名うての暴れ川で、過去に度重なる洪水の歴史を記録している。荒川の下流域の東京下町一帯は、今世紀に入ってからでも、何度も甚大な被害を被っている。大正十三年に大改修工事を行い、主流を中川方面へ流す水路を掘消し、北区岩淵に水門を設けた。これが荒川放水路だが、放水路が出来てからは、隅田川は荒川の下流部分であることなど、ほとんど忘れられてしまった感がある。
不过案件终究还是发生了。
圣林寺的钟滴了血这起“案件”,雪江到最后都没有跟阳一郎说起过,更别提浅见了。倒不是因为和圣林寺住持有言在先,不能欺骗住持,而是想尽量不给本就公务缠身的阳一郎多费口舌、给他增加负担。
正好是半个月后的五月二十二日,隅田川上游的岩渊大坝附近发现了一具男尸。
淹廉太郎的诗歌《花》中有言:“小春日和隅田川……”,隅田川是和伦敦的泰晤士河、巴黎的塞纳河并称的存在。但是,作为大都会东京的名胜之一的隅田川,追根溯源,只不过是出自秩父的深山、流经埼玉县的荒川的下游部分。荒川在千住附近向右来了个大转弯,靠近江户市区的一带被叫做“隅田川”。
荒川正如其名,是一条狂暴的河流,历史上曾经发过多次大水。荒川下游的东京繁华区一带,仅在二十世纪以来,就因几经洪水而受到重创。大正十三年大兴土木,在干流上挖掘了通向中川的沟渠,又在北区岩渊修建水坝,这就是荒川泄洪道。但是自从修筑了泄洪道,隅田川只是荒川的下游部分这件事,貌似已经被人们忘掉了。
先生の教えをお願い致します。
[
本帖子最后于 2024/12/22 17:01:05 编辑 ]
靡不有初,鲜克有终……