職員の話の様子から察すると、弓岡はこの土地にはほとんど不案内であったらしい。それは、「ここは栗林公園の動物園か?」と、きわめて分かりきったことを確認していることからも推測できる。
浅見の脳内には、尾道から高松に来るまでの弓岡の行動経路と思考経路が錯綜して浮かんだ。
こういう時の浅見はひどく特徴的かつオカルト的で、感情移入が極めて強くなる。それは、目を閉じるまでもなく、例えば弓岡なら弓岡が置かれていたであろうその時の状況を、あたかも自分の周囲の空間に置き換えてしまうほど強烈だ。
そんなものは錯覚にすぎない――といってしまえば、たしかにその通りかもしれないけれど、そうやって、主人公の立場に立って考えるところから、浅見の推理は広がってゆくのである。
浅見の脳内には、尾道駅のプラットホームに立って、瀬戸内の街を眺めている弓岡正がいる。
いや、弓岡の視点で、浅見自身が尾道の街を眺めている。東京へ戻ろうか、高松へ行こうか――思案に迷う弓岡である。
とどのつまり、弓岡は高松へ向かうことにした。瀬戸大橋を渡ってゆく列車の窓からの風景が、浅見の脳内をよぎる。
从户田的话来看,弓冈对这里完全是人生地不熟。从弓冈会问“这里是栗林公园的动物园吗”这样极其明显的问题,也可以推断得出来。
浅见的脑中交错着弓冈从尾道到高松的行动路线和心路历程。
这时的浅见非常特别,而且显得很神秘——他正在竭力地进行感情移入。所谓感情移入,就是在不闭眼的情况下——以弓冈为例——把自己周围的空间全然置换成弓冈当时所置身的空间。
这样思考不过是错觉罢了——虽然确实也可以下这样的定论,但是因为这样做可以站在主人公的立场上换位思考,浅见的推理空间也就能得到扩展。
浅见的脑中浮现出站在尾道站站台、眺望濑户内街道的弓冈正的身影。
不,是浅见自己在以弓冈的视角眺望尾道的街道。是要回东京,还是去高松?——弓冈陷入了思考。
千想万想,弓冈还是决定了去高松。穿过濑户大桥的列车窗外的风景,在浅见的脑中一闪而过。
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靡不有初,鲜克有终……