いや、いまでも果たして「カネ」は「金」なのか「鐘」なのか、どちらとも解釈できる状況に変わりはない。むしろ、鐘を目当てに東京―尾道―高松と旅をするというほうが、どちらかと言えば荒唐不稽かもしれなかった。
それでも弓岡は高松に来た。高松駅に降り立ったのだ。
そして再び、浅見の中の弓岡が動き始める。
コトコト走るコトデンで揺られ、栗林公園駅に着く。栗林公園が、動物園が……。
やがてそうして、目の前の電話帳が見えてくる――それが浅見光彦流の思考術というべきものなのだ。
浅見は「カネ」の追求をひとまずあきらめて、もう一つの可能性――弓岡が会おうとしていた人物が誰なのかに焦点を絞って考えてみることにした。
しかし、はたしてその解答が、この電話帳に隠されているのだろうか?
高松地区の五十音別電話帳は七百二十八ページから成っている。そのうち六百八十五ページ分が「本文」である。
浅見はその一ページ一ページをめくっていった。べつにあてがあるわけではない。
ここの電話帳はまだ新しいのか、それともあまり使われていないのか、表紙の中身も手垢で汚れていることはない。
そういえば、全国に何百万冊か知らないが、膨大な数の電話帳が配布されているけれど、人々はそれをどれほど活用しているのか疑わしい。
不,“卡内”是“钱”还是“钟”尚且存疑,不论那种解释都说得通。非要比较一番的话,为了钟而踏上东京-尾道-高松之旅的这种说法反而更加荒唐吧。
然而弓冈终究是来了高松,终究是在高松站下了车。
浅见脑中的弓冈又一次移动了起来。
在琴电的咯噔咯噔声中,弓冈的身体也随着列车而摇晃。最终他在栗林公园站下了车,抬眼尽是陌生的地名:栗林公园——动物园……
不久之后,办公室里的电话簿映入了他的眼帘——这种思考方式甚至可以被称为浅见光彦流。
浅见暂时放弃了对于“卡内”的深究,转而专心思考另一种可能性——弓冈要见的人到底是谁。
思来想去,这个问题的答案似乎也隐藏在电话簿当中。
高松地区的五十音別电话簿有728页之多,其中有685页都是“正文”。
浅见也没什么抓手,就那样一页一页地翻找着。
这个电话簿可能还是崭新的,又或者没怎么使用过,封面和内里都没有被手垢污染的痕迹。
这么说来,虽然不知道这样的电话簿全国一共有几百万册,但也一定是数量惊人,然而说实话,人们到底在多大程度上利用了这些电话簿呢?
先生の教えをお願い致します。
靡不有初,鲜克有终……